誠の道を求めて 小川草分け時代

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松本太平は、川上村白川渡28番屋敷(熊野街道筋)で運送業を営む傍ら、自家の 山林、畑の耕作、また山守と多面に亘って働いていた。村では37歳にして戸長をつ とめ村会議員の重き役目を果たす等、村の人々の人望も厚かった。家族は妻千代、 長男安吉の三人であったが、その妻千代が病の床に伏して三年、親子は非常に困惑 していた。そんな折にこの道の教えを聞き、これこそ誠にたすかる教えと入信を決 意した。時に明治26年12月であった。
 明治27年1月正式に信徒に加入し明治28年には稼業は従業員と安吉の嫁にまかせ、 息子の安吉と共に親子二人して布教に専念した。入信してこの道を歩み始めて以来、 実に2年余りにして、道専務に断ち切る徹底した信仰信念であった。
 明治31年には、ついに全財産を納消して道一條になった。松本太平は上市支教会 から小川布教所へ、安吉は川上に残り、前田の裏の一間を借りて布教に専念した。 前述の通り、上市支教会の命により、太平は小川布教所に住み込み布教したのである。  松本安吉氏上西米吉の二人の熱心な布教により、川上にも布教所設立の気運高ま り、ついに布教所設立の運びとなるが、二人は若年故、松本太平を以て担任とし、 設立することになった。こうした上から、明治32年、松本太平は小川布教所より川 上布教所に転任した。
 一方、小川布教所は、所長不在がちに加え、常住の松本太平も川上布教所に転任 したため、逐次放置状態となった。

 明治39年
  3月    川上出張所長を辞任した松本太平は上市支教会へ帰り、
会計係としてその責を果しつつ小川・国樔・東川方面へ
布教
明治40年
  7月18日  初代所長植田勝造が大教会詰となるため、松本太平が
小川布教所二代所長に就任
明治41年
  11月27日  本教の一派独立が認可される。これに伴って、教会名称
も大教会・分教会・支教会・宣教所と改称となる。

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