単独布教師各地に派遣

三代会長に就任した松本安吉は熱誠の人であった。仕込みも厳しく、一人でも 有為な道の人材を育てようと、時には恐れられる程、理に添いきることを徹底した。 後の単独布教を志した人々は、等しく松本安吉三代会長の薫陶を受けた人々であった。

  9月3日  入信以来、32年間、只一條にこの道を歩みきった松本太平が、
79才にて出直。その功績を称えられ、上市分教会葬にて上市で
葬儀執行
 大正13年 教祖40年祭活動の最中、特に教勢倍加の提唱をもって別科生の
大募集の声に全教挙げて真剣に取り組み、小川からも後の教会
設立者となる人々が次々と別科へ入学(半年の教義勉強とひの
きしんの修養で現在の修養科の前身)
 大正14年
  8月    上瀧ナラエ・峰本玉枝の両人は、松本安吉所長の命のもと、
福岡県田川郡伊田町伊田にて単独布教開始
  11月   都合により帰和した峰本玉枝は父為吉に伴い、和歌山県海草
郡雑賀村小二里にて布教
       福井卯八も北海道にて布教に専念
 大正15年  教祖40年祭執行
  7月1日  小川宣教所にて教祖40年祭執行。帰参者約200人
       この年、身上未だ勝れぬ辻田正義も和歌山へ単独布教開始
 昭和2年   松本要太郎、別科を修了。大教会青年を辞して上市へ戻り、
小川に住み込み布教する
 昭和3年
  6月2日  松本要太郎 小川宣教所四代所長のお許し戴く
 昭和4年
  2月21日  松本要太郎 森 和七長女道枝と結婚
 昭和5年
  10月15日 長男 弘教誕生
 昭和6年
  7月24日  九州にて布教する上瀧ナラエが教会設立
        教甲 第2571号
  天理教赤誠宣教所
        福岡県田川郡伊田町大字伊田3097番地
  担任 上瀧 ナラエ
  9月20日  和歌山にて布教する峯本・辻田が合流して教会設立
        教甲 第2583号
     天理教赤眞宣教所
        和歌山県和歌山市西浜118番地
     所長 辻田 正義
       両宣教所とも、昭和11年10月7日 お目標様下附戴く

お粥をすすって

当時の小川の実状は、三代会長に仕込まれた人々によって部内教会も設立され、 教勢は伸展したが、内情は苦しく、大勢の住み込み人と共にお粥を食べることすら 出来ぬ日もあった。1円の借金を5年も返せずに苦労したとの語り草も残っている。

 昭和8年   桝田俊雄、教会住み込みから、肥田ツネを嫁に迎え、
大阪布教に出る
 昭和10年
  1月10日  北海道にも教会設立
      教甲 第3272号
       天理教徳俵宣教所
        北海道標津郡標津村俵橋14線北20番地
        担任 福井 卯八
       昭和15年2月10日 お目標様下附戴く
  3月    小川分教会では客間2階・ 信者室1階・延12坪と風呂場を増築
 昭和11年  教祖50年祭執行される

 教祖50年祭後、日中戦争が始まり、本教の布教活動も国策に添っていろいろ制約 され、教勢は伸び悩んだ。こうした中にも、おぢばでは、立教100年祭が厳粛につ とめられ、各教会でもつとめさせて頂いた。

 昭和18年  学童疎開が小川分教会の教堂に入る

昭和20年 8月15日  終戦 を迎える

 昭和21年  教祖60年祭執行。諭達をもって「復元」を強調される

 四代会長松本要太郎は、戦時中、村役場に奉職していたが、復元の提唱を頂いて いち早く退職して布教に専念した。未だ世情も安定せぬ時期であったが、思い切っ た決断で教勢も段々進展し、月次祭も午前中につとめることを実行した。しかし、 食糧は充分ではなく、帰参者への心づくしの酒や食事の準備に、夫婦して苦労した。

 昭和23年
  11月23日 三代会長 松本安吉出直 77歳
 昭和31年  教祖70年祭執行される
       小川分教会として観光バス5台(250人)の団参を実施
  6月27日  徳俵分教会俵橋より町中へ移転
       住所 北海道標津郡中標津町1条道24線5番地
 昭和32年
  1月12日  松本弘教 国樔の大森周次郎次女啓子と結婚
 昭和35年
  3月26日  松本弘教 小川分教会五代会長のお許し戴く
       同時にお社取替のお許し戴く。材料は谷裏勇吉・
小泉奈良石が献納。製作・吉田栄造
       当時の教勢 部内3カ所 教人8人、 修養科(別科)8人
       よふぼく 男・37人  女・74人

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