日露戦争による困窮・東北の大飢饉等により、設立以来布教所の会計一切を支え
て来た谷裏嘉七も経済的に困難をきたし、その上、信者の減少等の事情から講名を
取り消すか、もし存続するなら他へ移転してくれとの話となり、取り敢えず、中荘
村樫尾東谷喜蔵宅を借りて一時移転することとなった。
明治42年
2月26日 移転改称 教政第701号
天理教敷島大教会 上市支教会 小川宣教所
3月5日 移転鎮座祭執行願のお許し戴く
3月10日 移転鎮座祭執行
こうして東谷宅を拠点に布教活動を進め、かねてより布教をしていた新子・東川
方面を中心に、辻田直次郎宅を集談所として寄り集い、行く行くは新子に移転する
ことを心に定めた。
この真心を通して神様のお働きを頂けたのか、いよいよ新子への移転の話がまと
まり、氏神下の稲荘氏の屋敷の一部を借り受け、川上方面より用材の献納を頂き、
約一ケ月にて間口二間奥行四間半(三坪の神床・五坪の参拝場)を一気に新築(旧
神殿横の事務所)した。
ささやかながらも教会ふしんに関わる人々の喜びは大きなものがあったが、またそ
の反面、苦労も多く、とりわけ、信者の苦労は計り知れぬものがあった。しかし、
これが次なる塚への計り知れない肥となった。
明治45年
6月4日 移転願 教乙第333号
所在地 奈良県吉野郡中荘村大字樫尾36番屋敷
移転地 同県 同郡 国樔村大字新子17番屋敷
6月7日 天理教敷島大教会 上市分教会 小川宣教所
鎮座祭 明治45年7月12日 執行願
上記の通りお許しを戴き移転した。
移転後小川宣教所では、上級上市の会計を息子安吉に引き継いだ松本太平が、再
び小川宣教所に常住した。
軒先に七輪を出してお粥をたき、五坪の参拝場で寝起きして布教に専念。祭典日に
は窪垣内(小松宅であろう)、または新子南側の信者宅(辻田宅であろう)に数人の
信者が集まって食事の準備をし、これを運搬するという状態であった。
大正3年 再度ふしんの話が出始め、一人一ケ月10銭の積み立てを
申し合わせる
大正4年 教会本部北礼拝場のふしんも終わり、息つく間もなく
土地買い入れの話が持ち上がる
菊田伊太郎氏の土地と畠で、宅地は105坪、畠二畝六歩の二筆である。代金は300
円であった。当時の小川にとってこの土地買収は容易ではなかったが、一同思い
を決して購入することを決意した。代金200円を借り入れての土地買収であった。
こうした厳しい道中にあっては、一日も早い神殿ふしんに着手したい志があるも、
現実にはそれもかなわず、曳きならした屋敷に大豆小豆を植えて人々の嘲笑の的と
なった。
大正6年、谷裏嘉七を始め、役員の熱心な談じ合いと決断によって新築に踏み切
ることとし、高原土場栗山三之助棟梁に設計を依頼。間口四間半奥行六間と神饌所
一間半と一間一尺の大きさで、用材別で1800円と見積もりされた。以来、何回とな
く相談を重ね、窪垣内の熱心な信者の山で檜十三本を献納頂き、7月に東川の信者に
出してもらい、11月、念願の起工式をつとめた。
大正7年
3月21日 上棟式を執行。事務所・炊事場は旧神殿を移築。
それに新しい神殿を接続して増築する
教乙第660号
奈良県吉野郡国樔村大字新子17番地
天理教敷島大教会 上市支教会 小川宣教所
右同郡同村大字新子弐百拾四番地へ移転の儀
同宣教所長 中講義松本太平外五名ヨリ願ノ件聞届候事
但シ地方庁ヘ届出スベシ
10月28日 移転遷座祭 11月12日
落成報告祭 11月13日 お許し戴く
宅地 壱百七拾参坪
教堂 参拾壱坪半
事務所(炊事場)拾六坪を旧神殿に増築
大正12年
8月28日 担任変更のお許しを戴き松本太平が辞職
松本安吉 小川宣教所三代会長のお許し戴く